これまでのマスコミからの掲載記事を一部テキストスタイルで紹介します


河北新報

「もぐらの家」奮闘記

自立目指す障害者たち

1981年9月7日(1)見習工

「仕事をしたい」「働く場所が欲しい」。心身障害者がこの痛切な願いを訴えて久しい。しかし、身体障害者雇用促進法で定められた法定雇用率を満たしている職場は相変わらず少なく、国際障害者年のテーマ「完全参加と平等」を裏切っている。そんな冷淡な風潮のなかで、行政や既成の組織の力を借りず障害者だけで自立を目指しているユニークなグループが仙台市にある。仙台「もぐらの家」(星孝明代表・同市飯田字上屋敷二一)。「今の障害者はもぐらのようなもの。光を浴びることはない。それができたら奇跡です」と語りながら、その奇跡を実らそうとする彼らの姿は感動的だ。今月の心身障害者雇用促進月間に合わせて、彼らの生きる姿に、障害者と働く場の問題を考えてみよう。(八回続きの予定)

 取材 赤間 秀夫 記者

    佐藤 里三 写真部員

  電線解体に挑戦

 下半身や右手右足のマヒ、精神分裂症や脳軟化症・・・。さまざまな障害を持つ人々が器用にこなす仕事を、ハシならぬペンより重いものを持ったことのない(?)記者がやればどうなるか。取材のスタートは゛見習い工゛だった。

 今「もぐらの家」が力を入れている仕事は、電線解体である。余ったり、欠陥が見つかって使い物にならなくなった、さまざまな太さの電線のビニール皮膜を電工ナイフを使ってむき取り、導線を取り出す作業。二つに分けられた銅線とビニール皮膜は、再び電線製造会社や資源業者に引き取られ、再利用される。

 この作業が実に簡単そうに見えるのだ。左手しか使えないキムちゃん(28)が、電線を足で押さえ、ナイフを手前に引くと、スルスルっとむける。下半身マヒの朝男ちゃんは、右手にナイフを持ったまま、左手に持った電線を引っ張るだけでキラキラ光った銅線が姿を表わすのだ。

 記者には、まず切り込みの入った銅線が預けられた。これは実に簡単。電線をたわませれば、すぐ銅線が取りだせる。簡単すぎて、すぐ物足りなくなった。

仲間のたった半分

 そこでナイフを借り、本式の電線むきに挑戦した。ところが、電線に切れ目を入れても、力を入れ過ぎると、ナイフが銅線に引っかかったまま、動かない。コツを飲み込むまで数十分かっかったろうか。コツをおぼえても、手元が狂うとビニール皮膜はすぐ切れてしまう。キムちゃんや朝男ちゃんがむいた皮膜は、一本につながったままきれいにむけているのに、記者のは鉛筆の削りかすのようにバラバラだった。

 それでも、直径数mm程度の細い電線ならなんとかむける。太さ二cmほどのケーブル線ともなるとビニール皮膜の内側が、さらにプラスチックに覆われており、並たいていの力ではニッチもさっちも進まない。一kほどをむくのに大の男でも十数分かかってしまう。まして、力仕事に不慣れな者は、ナイフを逆手に持ち替えたり、何度もため息をついた揚げ句、「やっぱり、無理ですね」と音を上げてしまった。

さわやかな表情

 約二時間の”見習い”期間中に、記者がむいた量は銅線の重さにしてざっと三k。もぐらの仲間の半分のペース。情けないことには、両手の指の節々が痛み出し、右手に三個、左手に一個のマメができていた。

 「初めにしてはいい方。すじがいい」と朝男ちゃんは、ほめてはくれた。しかし、「これを八時間もやるのか。毎日続けていたらどうなることやら・・・」という思いが次々浮かぶ。体を鍛えていない身勝手さを願みない”見習い”志願を後悔したものである。

 それに引き替え、もぐらの仲間たちは、一日の仕事を終えた満足感で、さわやかな表情。たった二時間で指の痛みを訴えるようなものとは違い、楽しそうに後片付けをする。はた目には、どちらが障害者に見えただろうか。

二時間で百二十円

帰り際に、またびっくりする話を聞かされた。記者が悪戦苦闘をしながら、やっとの思いで”製品”に仕上げた銅線三kの手数料のことである。「まあ百二十円ぐらいですね」と朝男ちゃん。

 二時間かけた仕事の収入が百二十円!「たった」と言ったら、真剣にこの仕事に取り組んでいるもぐらの仲間たちに失礼だろうか。しかし、記者の学生時代のアルバイト料は一時間三百円。十年後の今、その何分の一かの収入を得るために額に汗し、働く喜びを得た人々がいることを、恥ずかしながら初めて知ったのである。

簡単そうでも”重労働”
働く喜びが最大の報酬


河北新報

「もぐらの家」奮闘記

自立目指す障害者たち

1981年9月8日(2)トンネル

 ゼロからの出発

 「仕事がなくなり、心配で朝まで眠れなかったことは何回もあるね。どうなるかな、と心配で・・・。いよいよのときには、親類でもなんでも回って古着を集め、ウエス(油ふき用布)を作った。つなぎのつもりでね」。心身障害者の共同生活作業の場である仙台「もぐらの家」(仙台市飯田字上屋敷二一)が危機にひんしていたころの話である。

 もぐらの家のメンバーは、五十三年六月の設立以来、実に、さまざまな仕事をこなしてきた。製本の下請けや廃品回収、洗たくばさみの販売、電線解体、ウエス作りなどなど・・・。アパートの一室でゼロから出発したのである。自分達に最も適する仕事は何か、暗中模索しながら、仕事を求めていた。設立一、二年は、納期に間に合わせようと夜中までかかったこともあれば、毎日何もしないで一日を終えることもあった。「オレたちも人並みに働けるのだ」という喜びと、「仕事がない」という悲しみが交互に襲ってきた。

”ないよりはまし”

 「親類でもなんでも回って・・・」

仕事をかき集めるのは日常茶飯事。こんなこともあった。

 「電線があるというから行ってみたら、ゴミ捨て場のようなところに連れていかれて、ゴミをあさったものです。段ボールやゴミを取り除いて、見つけた電線は底の方に三、四本。それでもないよりはましだから、皆のところに持って帰る。すぐむいてしまうと、また仕事がなくなるから、皆に”ゆっくりむけな”といいながらね。外から見たら、遊びのように見えたでしょうね」。仕事の能率を上げなければ、収益はあがらない。しかし、能率を上げてしまえば、すぐ仕事がなくなる。仕事がなくなるぐらいなら、能率を下げてしまう方がいい。働く喜びの方が大切なのだ。

 もっとひどいときには、針のような電線をむいた。ラジオの配線に使われているような電線ですね。皆で一日むいても一kにもならないぐらい。たとえ、収入にならなくても仕事にさえなればいい」。電線解体はキロをこなして幾ら、という仕事。一日一kでは、骨折り損のくたびれもうけである。もぐらが掘るトンネルのように、光の当たらない苦闘の日々だった。

 慢性的な不安解消

ことし二月、「もぐらの家」に朗報が飛び込んできた。大手の電線メーカー北日本電線が、毎月古電線の解体を発注することになったのである。月一・五tほどの古電線を解体し、キロ当たり四十円の手数料をもらう。「もぐらの家」のメンバー四人が、二十日かかる仕事だから、手数量が安いといえば安い。だが、これで「仕事がない」という慢性的な不安は消し飛んだ。仕事がなく、手持ちぶさたに一日が過ぎた日々は、もうこないのだ。

 「電線解体が面白くないという障害者は、会社なり事業所に勤めることのできる人です。うちのように重度の障害を持っている者から見れば、これは理想的な仕事です。収入を上げて自立できるようになるんですから。それに全身を動かす仕事だからリハビリ的な効果もあるしね」(星代表)。設立から三年目にして、自分達に最も合った仕事、なくなることのない仕事を探り当てた「もぐら」の仲間たちは今、長いトンネルから抜け出そうとしている。

手数料より仕事確保

古電線解体に光明見いだす

河北新報

「もぐらの家」奮闘記

自立目指す障害者たち

1981年9月10日(3)月給二万円

 全員が一律の報酬

 一ヶ月の収入が十万円から十五万円。若い独身者なら、もう少し欲しいところではあるが、まずまずと我慢できる額であろう。だが八人分となれば話は別だ。一人当り一万五千円から二万円の月給では、最低限の生活さえできない。心身障害者の共同生活の場・仙台「もぐらの家」(仙台市飯田字上屋敷二一)の仲間は、月平均一率二万円弱の給料で働いている。月給というには、あまりに乏しく、薄っぺらだ。

 「もぐらの家」は今、主に電線解体とウエス(油ふき用布)製造で収入を得ている。電線解体は、セキズイ損傷による下半身マヒ、脳軟化症による右半身不髄、脳性マヒによる右手右足マヒ、精神分裂症という障害を持つ四人が担当。脳性マヒの一人がウエス作りに励んでいる。その作業は、障害者とは思えないほど能率的で、健常者が、見よう見まねでやってみたとしても、とても太刀打ちできるものではない。単調な仕事に喜びを感じ、ひたむきに打ち込む姿は、ある種の感動さえ呼び起こすだろう。だがいかんせん報酬はその高貴さに比例しないのだ。

全員で年に88万円

 「もぐらの家」の五十五年度会計を見ると、数字が一けた間違っているのでは、と錯覚する。給与の合計は八十八万七千七百五十二円。くどいようだが、この額は、メンバー全員(六〜八人)の一年間の給与をすべて加算したものだ。

「でも、少しずつ良くなっているんですよ」。もぐらの家のメンバーは、さほど不満そうな表情を見せない。なにしろ、設立当初のころは、「内職のような仕事ばかり、手先の器用さを要求されて、(障害者)五、六人でやっと普通の一人分しかできなかった」。当然賃金も健常者とくらべると五分の一から六分の一。月給に直すと、たった二千円にしかならない時もあったのである。今は、そのころに比べれば「給料が上がった」と笑う。

やっと施設のレベル

 現に、「もぐら」の仲間たちは給料の低さをとらえて「給料が安すぎる」とは考えていないようだ。重度の障害者が、一般の会社や事業所で働くことが”夢”と思えるほど困難なことを、彼らはそれこそ骨身にしみて知っている。福祉工場やワークキャンパスなどの施設に働いても、月給は三、四万円にしかならない。施設での規則や不自由さを考えれば、自由な「もぐら」の空気を選ぶ、という。

 「障害者が自分たちだけで仕事を集め、まるっきり自力で法人化もされていないところが、二万円も(給料を)出せるようになったのは、あまり例のないことじゃないでしょうか。やっと共同作業所という形での施設のレベルに達したと思いますよ」と星代表。

 確かに「もぐらの家」は、法人化された施設と比べれば、給料が若干安い。作業所も仮設プレハブで、炎天下の夏、極寒の冬は、つらい。健常者の職員がいるわけでもなく、ボランティアが来ない日は、昼食や身の回りのことまですべて自分たちだけで処理しなければならない。それでも「もぐら」が少しずつ成長しているのは、月給の低さだけでは判断できない、大きな魅力があるからだ。

薄給でも自由が魅力

自分の力で確実に成長

河北新報

「もぐらの家」奮闘記

自立目指す障害者たち

1981年9月11日(4)生きがい

ぎりぎりの生活

 月給がたった二万円。生きがいはあるのだろうか。平均的な生活をしている一般市民なら、すぐこんな疑問を持つだろう。第一、一ヶ月の食費代にさえならない。心身障害者の共同生活・作業の場、仙台「もぐらの家」(仙台市飯田字上屋敷二一)の仲間たちは、確かに楽な生活を送っているわけではない。だが、生きる喜び、働く喜びは、人一倍感じている。

 「もぐらの家」代表・星孝明さん(二六)の”家計簿”を見せてもらった。「もぐら」の月給が多いときで二万円、障害福祉年金が三万二千円、基礎手当六万円でトータルの収入は月十一万ちょっと。このなかから、アパートの家賃二万五千円、水道光熱費五千円、自分の足である車の維持費三万円、食費三万五千円など基本的な経費を除けば、残るのは二万円弱。雑費や飲食費、娯楽費などに使ってしまえば、何も残らない。

 「無駄遣いをしない限り、赤字は出ません。でも、毎月ぎりぎりの生活です。いつどこでお金がかかるかわかりませんし、ちょっと不安ですね」という。

食費は家族の援助

 星さんのように、生活扶助を受けることのできる人はまだいい。両親や兄弟がそばに住んで、なんらかの援助が受けられる障害者は、生活扶助の対象にならない。「もぐら」の作業主任・曽根朝男さん(二九)の場合は、月給と障害福祉年金だけが頼り。市営住宅の家賃、車の維持費を賄うのが精いっぱいで、食費などの生活費は家族の援助に負うところが多い。

 だから、「月給二万円から三万円、三万円より四万円と増やしていきたい。せめて、最低限の生活ができるぐらいはね」と曽根さんは語る。月給二千円という時もあった。少しずつ希望が膨らんでいるせいだろうか。「もぐら」の仲間たちは、月給の安さをあまりぼやかない。

「良くなっているよ」

 とび職だったオッチャン(五六)は、高血圧で倒れて今は右半身不髄。「(元気だったら)月収六十万円ぐらいになっただろう」とあっさり語り、その三十分の一しか手に入れることができない今を「家でぼんやりしているよりはいいね」と、トレードマークのニコニコ顔で話す。自宅生活が長かったキムちゃん(二八)に、「月給が二万円じゃあ、安過ぎるね」と聞くと、「でもだんだん良くなってるからね」と切り返された。

オアシスのように

 「では生きがいはなに?」。愚問だった。「今のところは、給料が安くても、”もぐら”ができる前までは施設や家で遊んでいたようなものなんです。人並みに働くことができ、曲がりなりにも賃金を得られるという満足感はありますよ」

 「施設に入れば、自分達の意志通りに生活できますか。規則が多いし管理される。同じ自立できない給料で、窮屈な生活を強いられるのは大変。特に、われわれのような若いもんは、障害者にだけなぜ自由がないのかと思いますよ。”もぐら”には、いい意味での自由があるし、自分達で運営していく楽しみがある」

 給料の低さを補って余りあるほどの自由と自立。一般市民は既に当然のように手に入れているものが、障害者には、砂ばくのなかのオアシスのように思えるのだ。

 

働けることに満足感

自らの運営も大きな楽しみ

河北新報

「もぐらの家」奮闘記

自立目指す障害者たち

1981年9月15日(5)完全な自立

手作業で電線処理

 心身障害者の共同生活作業の場、仙台「もぐらの家」(仙台市飯田字上屋敷二一)に連日通っているうちに、変に思ったことがある。ナイフではとてもむけないような硬い電線を、手作業だけで処理しているのだ。これでは、どんなベテランでも手にマメを作り、すぐネを上げたくなる。非能率なこと、おびただしい。「なんで、機械を入れないのか」と不思議に思う。そして、行政の援助をなぜもっと求めないのか、と。

 五十五年度の経常会計報告を見せてもらった。収入は、作業収入が百三十一万七千円、一般からの寄付七十五万八千円、「もぐらの家」の支援者の集まり・賛助会基金十四万五千円。行政改革論議のなかで一躍注目を浴びた「補助金」は一銭もない。これまで行政から得た援助といえば、発足場所の同市桜ヶ丘のアパートから現在地に移転した際、同市から宮城県沖地震の時の仮設住宅を払い下げてもらったぐらいだ。行政に頼らない姿勢に感激して、何回も寄付金を寄せる市職員がいるほどである。

行政の力を頼らず

 「もぐら」の仲間たちが、苦労しながら電線をむいている姿を見ていると、「なぜ、行政の力を求めて、機械を導入しないのか」と思う。なにしろ、一ヶ月に一・七tもの電線を解体するのである。いくら慣れているとはいえ、身体障害者が手作業だけを頼りにしていたのでは、仕事の能率が悪くなるのも当たり前だ。

 電線の回収や運搬のたびに、マイカーのトランクに三百Kもの電線を積み込むのを見れば、「トラックを利用できれば、能率が上がるのに」と、おせっかいをやきたくなった。「市役所に援助を頼んだら」と話したら、直ちに否定の返事が戻ってきた。

 「自分たちは完全な自立を目指している。できるものなら自分たちの力だけでやりたい。何もしないうちから、行政に”ああやってくれ””こうやってくれ”と頼めば、”ああ、またか。障害者だからな”と言われるだろう。それはいやだ」。特定の政党に属したり、支持することも否定した。「選挙が近づくたびに、いろんな人が来ます。しかし、一つの政党に属してしまえば、他の人々から見向きもされなくなってしまう。堂々と人間として生きたい。政党は関係ありません」ときっぱり答える。

 だが、夢は見る。「もぐら」の仲間たちが障害年金を必要とせず、完全に自立できる日々を。

いつかは法人化も

 「いつかは、”もぐらの家”を法人化して、法的にも組織上もしっかりしたものにしたい。それまでは自分たちの力だけでがんばりたい。障害者だけでここまでやってきたという実績を作ったうえで、もうこれ以上は無理となった時点で、行政の力を借りたい。」

 「できるならば楽な仕事をしたい」「自分が楽になるために他人の力を借りたい」「行政にはなんでもやってもらおう」。健常者の世界には今、あまりに他力本願な風潮がはびこっているのではないか。「もぐら」の仲間たちの話を聞き、働く姿を見ていると、目が洗われるような気がするのだ。

 

補助金なしで努力

生活扶助返上を夢見ながら

河北新報

「もぐらの家」奮闘記

自立目指す障害者たち

1981年9月16日(6)ボランティア

初めて包丁を握る

 高校を卒業してまだ半年。ボランティアと呼ぶにはやや不似合いな、初々しさの残る少女たちだった。心身障害者の共同生活作業の場、仙台「もぐらの家」(仙台市飯田字上屋敷二一)で会ったボラさんたちである。おそらく家では何もしないような、何もできないようなヤングたちが、かいがいしく働いたり、「もぐら」の仲間たちの世話をしている。義務感からではない。屈託のない笑顔を見せて、「だってここにいると楽しいもん」という。

 昼前に「もぐらの家」を訪れると、自宅では今まで包丁を握ったこともないような若い女性が、危なっかしい手つきで、昼食の準備をしているのを、時々見ることがある。男が多い「もぐらの家」では、昼食の準備が一番の難物。ボランティアがいない時は、ご飯と生卵か納豆の繰り返しだ。女性ボランティアが来た日は当然、料理はボランティアにおハチが回る。

家では何もしない

 「家ではなーんにもしません。料理もあんまりできない。かえって、ここに来るようになってから料理ができるようになった」。首をすくめるようにしてユーモアたっぷりにおしゃべりする佐藤由紀江さん(十九)も、そんなボラさんの一人である。「もぐら」のただ一人の女性メンバーであるYさん(二九)が料理するのを何回か見ているうちに、料理ができるようになったという。

 由紀江さんに誘われてボランティアになった伊東栄子さん(十八)にしても同じである。自宅ではめったにしたこともないのに、「もぐら」では料理長である。ある日の反省会でのこと。「今日は久しぶりに来たのですが、大したものが作れなかった。でも、皆が食べてくれたので安心しました」と栄子さん。すると、たちまち声が上がる。「冗談抜きで本当にうまかったよ」と。

 どうも、ボランティアという概念とはちょっと違うような気がするのである。本人たちに「なぜボランティアになったの?」と聞くと、実にたわいない答えが返ってくるのだ。

気楽なお兄ちゃん

 「ボランティアが好きというわけではなくてここのふん意気が何となく好き。居ごこちがいいというのか、気分的に楽なのね。皆いい人だし、気を使わなくていいし・・・。皆、お兄ちゃんだもんね」

 ボランティア。自発的に社会福祉活動を行う人ーと訳すと、重苦しい意味を持ってしまうこの言葉が、実に自然に軽やかに生きているのだ。

 「もぐら」の星代表も言う。「彼女たちは、われわれを障害者というのではなく、一人の友達としてとらえている。ここには十代がだれもいないし、彼女たちの悩みをわれわれが聞いてあげることもある。逆にこっちが教えていることも多いんです。言ってみれば、オレたちが彼女たちのボランティアだ」

生きることを学ぶ

 そう言えば、栄子さんの作文に次のような一節があった。

 「もぐらの家を知って、私は一日々々を大切に生きることを学びました。そしてなにか一つでも目的を持って前進するという大切さも。もぐらの家と出合って本当に幸福です。私にとって、もぐらの家は気の良い友達であり、時にはやさしく、時には厳しい先生でもあります」

 

一人の友達として

「楽しいから」とヤングたち

河北新報

「もぐらの家」奮闘記

自立目指す障害者たち

1981年9月17日(7)小さな助っ人

雨の日も風の日も

 放課後はもちろん夏休みも一日も欠かさず心身障害者の共同生活、作業の場・仙台「もぐらの家」(仙台市飯田字上屋敷二一)に飛び込んでくる二人の少年がいる。中学校特殊学級二年生のI君と養護学校五年生のKちゃんだ。二人はそれこそ雨の日も風の日も、「もぐら」で作業を手伝い、「もぐら」の仲間たちと遊ぶ。その生き生きとした姿は、おそらく学校でも見られないのではないか。

 二人の障害は知恵遅れである。「もぐらの家」が昨年四月、同市桜ヶ丘から現在地に引っ越して間もなく、二人は「もぐら」に遊びにくるようになった。すぐ、電線解体やウエス作りなどの作業に興味を持ち、手伝うようになった。今では、作業に打ち込む真剣さはだれにも負けない。ナイフで電線の皮膜をむく難しい作業も、初めての大人よりずっと上手。今の子供たちのほとんどが、鉛筆をナイフで満足に削れないというのに、ハンディを持つ二人は実に鮮やかなナイフさばきを見せた。

担当教師びっくり

 昨年五月、Kちゃんは担任教師がびっくりするようなことをやった。「もぐらの家」の星代表と一緒に銀行に行った際、足の不自由な星さんに「女の人(銀行員)を呼んできてくれ」と頼まれ、無事この”大任”を果たしたのだ。この出来事を聞いた担任教師は「そんなことができるとは思わなかった」と、Kちゃんの成長を喜んだそうである。

 I君にしても、「もぐら」に来る前までは、他人とはほとんど話もせず、犬とだけ遊んでいるような毎日だった。今は、「おれたちが分け隔てなくしゃべっているうちに、話がわかってきた」(星代表)そうで、一日中はしゃぎながら仕事をしている。

本当の人間性出る

 「この子たちは家の近所では遊べないんです。村八分にされるから」と子供好きの雄さん(31)。「いや、そうではなくて、(健常者との)遊びについていけないんですね。家庭でも、ここで遊んでいれば安心でしょうから」と星代表。いずれにしても、放課後には「もぐらの家」に飛んで帰り、夏休みや冬休みになれば、朝から晩まで「もぐら」で生活している。「もぐら」のなにが、ここまで二人を引き付けたのだろうか。

 Kちゃんが通う同市立鶴谷養護学校の先生たちは、口をそろえてこう語る。

「世話をしたり、世話をされたりという生活がKちゃんの性格に合って、情緒的に安定した生活ができるのでしょう。周りが温かく面倒を見てくれるので、心が解放され、本当の人間性が出ているのだと思います。精神薄弱児の場合は家に帰っても、周囲に遊び相手がないことが多いのですが、Kちゃんは大変幸せな経験をさせてもらっています」

 二人に「もぐら」の良さを直接聞いても、一般の人が納得できるようなはかばかしい答えは返ってこない。でも、先生たちは、今年三月出した同校の文集「どんぐり」をうれしそうに見せてくれた。そこには、Kちゃんがたどたどしい文字で書いている。

 「もぐらのいえ どうせんむくのおもしろい」とー。

 

大人に負けぬ真剣さ

ナイフさばきも生き生きと

河北新報

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自立目指す障害者たち

1981年9月18日(8)「奇跡」を求めて

重い重い”踏み絵”

 給料が安くても、自由な空気が楽しい。障害は重くても、自分たちの力だけで自立を目指す。心身障害者の共同生活作業の場、仙台「もぐらの家」(仙台市飯田字上屋敷二一)をレポートするに当たって、記者は明るいイメージを強調し過ぎたかも知れない。今、彼らが持っている明るさは、健康な人々が一生かかって経験するような苦しさや暗さを”踏み絵”にしている。短期間の取材では、その苦しさを伝えることは難しい。

 例えば、作業主任の朝男ちゃん(二九)。仙台育英高の柔道部員だった彼は、練習試合で先生に投げ飛ばされ、セキ髄損傷となった。十代後半から二十代前半までの最も楽しい時代は「動くことができない寝たきりの毎日。病院の白い天井の穴ばかり数えてー」過ぎていった。長く苦しいリハビリテーションを受けて、「奇跡的に動けるようになった」ものの、下半身はやせ衰え、かつて柔道少年だったおもかげはない。

 例えば、「もぐら」の唯一の女性メンバー、Yちゃん(二九)。七年前に長女を出産したものの、産後の肥立ちが悪く、原因不明のまま下半身マヒの身になった。子供が二歳になったころ、夫から、突然「別れよう。疲れた。もうやっていけない」と言われた。今、Yちゃんはアパートで一人暮らし。子供は施設から小学校に通っている。

健常者、障害者は表裏

 二人の例は、先天的な障害ではなく、それまで健康だった人がまるっきり予想もしなかった障害と出合い、苦しみ抜いたケースである。健常者が「障害者」と呼ばれる日がくることを、だれが予想できようか。現在の二人の姿は、われわれに「あなたが障害者になった時、その運命に打ち勝てますか」と問い詰められているかのようである。

 「もぐらの家」は、もぐらが持つユーモラスな響きと、もぐらが住んでいる闇(やみ)の世界という明暗二つのイメージを合わせて持っている。「もぐらの家」という施設は、東京、新潟にもあるが、その名に託した思い入れは、それぞれに違う。

 仙台「もぐらの家」の名前の由来を尋ねた際、星代表は次のように説明した。

 「”もぐら”というのは、土の中の日の当たらないところで黙々と暮らしている。今の障害者は、そういう生活を強いられている。障害者の施設には、太陽とかひばりとか明るいイメージの名前が付けられることが多いでしょう。しかし、現実はもっと厳しい。僕らは、底辺から始まって光を見いだしていきたい」

 さらにこう付け加えた。

 「もぐらは光を浴びることをしない。光を浴びれば生命を失ってしまう。ここにいる”もぐら”(障害者)も、光を浴びることはできないでしょう。それができたら奇跡だ」。国際障害者年のテーマ「完全参加と平等」は、このセリフの前では、実体の乏しいきれいごとに聞こえる。彼らは、障害者に光が当てられる時がくることを、はなから信じていない。信じてはいないが、「奇跡」を待ち望んでいる。

初めて知った生命力

 うつ病で悩んでいた青年が、「もぐらの家」で働いたことがある。今、彼はうつ病だったとは信じられないほど明るく快活な青年に戻った。「皆を見ていたら、僕の病気なんて病気ではないと思うようになったのね。母も”もぐら”を忘れたら、罰が当たるといっています。皆と一生付き合っていきます」と彼はいう。自分が病気に苦しんでみて、初めて障害者のつらさ、強さ、生命力の偉大さを知った。

社会の片すみで、ひっそりと、しかしたくましく生きている障害者に、この青年のような温かい視線が注がれるのは、「もぐら」の仲間たちが言うように「奇跡」なのだろうか。

 

やはり光は浴びたい

いつになれば底辺にまで・・・


 

河北抄

昭和五七年八月二十日

仙台市荒浜にある、心身障害者の共同生活と作業の場「仙台もぐらの家」が、自分の手で”安住の地”を作ろうと、大きな夢を描いている。青写真も既に出来上がった。しかし、土地も建物もとなると、資金が大変なので、市民の協力を求めている。

 「もぐらの家」は、五三年に仲間三人が集まり、市内のアパートの一室からスタートした。施設には入りたくないが、さりとて家に閉じこもって一生を終えたくない。そんな訴えをもとに、生きがいと作業の場を求めて”自力独立”を宣言した。

 筋委縮症、セキ髄損傷、精神障害などの障害者八人と健常者二人が現在のメンバー。電線解体と油ふき用の布作りを仕事に、一人二万円の”月給”も出せるようになった。しかし借地なのが悩みで、現在の”家”も来年には引っ越さねばならないという。

 障害者の社会参加は、なかなか難しい。まして自分の力で仕事もとなると、ままならない。その中で、あえて「もぐら」を名乗って自立の歩みを進めている活動はユニークである。市民社会の盛り上がりによって後押しをして、夢をかなえさせたい。

 


河北春秋

1995年 1月9日(月曜日)

今年頂いた年賀状の中に、心身障害者通所援護事業施設「仙台もぐらの家」の皆さんからの一通がある。大きな文字で「飛翔」。昨年は努力だった。今年、新たな施設の建設に着手するのだという。その決意が「飛翔」になったのだろうか▼「もぐらの家」は、障害を持つ若者たちが働く場を自ら作り出し、自立を目指そうと、十六年前に生まれた。メーカーからの発注の古電線の解体、菓子箱折りなどが主な仕事だ。給料は高いものではないが、公的な施設にはない自由さが何ものにも替え難い。自由なモグラたちである▼現在は後援会や行政の援助など支援の輪にも支えられ、共同生活作業に励んでいる。養護学校や特殊学級の卒業生たちの就職は容易ではない。こうした通所施設が頼みの綱だ。しかし、受け入れには限りがあり、在宅のままの障害者が少なくない▼「モグラの家」を運営する一歩一歩福祉会はこうした現状を見据え、精神薄弱者のための通所施設を来春開設しようと、計画を進めている。地域に解けこもながら、障害者の自活に向けたきめ細かい訓練指導のできる施設を作る考えだ▼仙台ではまた、自閉症の子を持つ父親がわが子を含め、障害者の働ける会社の実現を目指して奮闘している。事務所探しや資金繰りに東奔西走、「自分の力で働く喜びを知ってもらいたい。行政に頼るだけでなく、本人と家族の力で将来を開拓したい」と頼もしい▼いずれも社会へ巣立つための人間形成の場作りだ。社会の側からも支援が望まれる。